波動関数の超越性について

波動関数は世界の枠組みであるか?


 二重スリットの実験の大きな論点は、どちらのスリットを粒子が通過するかを観測した場合は干渉像が表れず、観測しなかった場合は干渉像が表れるということにある。この現象は、古典的な粒子像ではなく、波動関数を用いて粒子の実在を否定することによって説明されるのが一般的である。(ボーム力学や確率力学を用いると、粒子の実在を否定せずに説明することも一応は可能であるが、ここでは考慮しない。)
 その時、我々が通常「粒子」と呼ぶものは、波動関数が非常に狭い領域に集中した「ガウス波束」のような状態であるとされる。従って、波動関数の中を粒子が運動するようなイメージや「波動関数はその複素共役との積が粒子の存在確率を示す」という言い方は誤りである。正しくは、「波動関数はその複素共役との積が、自らガウス波束のような波動関数に変化する確率を示す」とすべきであろう。ここで「変化する」という言葉を用いたが、この波動関数の変化はシュレディンガー方程式による因果的な変化とは異なり、不連続で非因果的な変化と考えられており、「波束の収縮」と呼ばれる。この「波束の収縮」という言葉を用いれば、「波動関数はその複素共役との積が、自ら波束の収縮を起こす確率を示す」という言い方ができる。
 さて、「ガウス波束」のような状態(以下、「ガウス状態」と呼ぶ)に波動関数を収縮させ、それを我々が「粒子」と呼ぶというのは、ガウス状態では写真乾板上の点のように、粒子に近い物理的な痕跡を我々が観測できるということを意味する。このことを逆に捉え、観測することが「波束の収縮」を起こすと思い込む人がいるが、これは大きな誤りである。波動関数をガウス状態に収縮させる原因は系の相互作用であり、我々が量子的な実験で何かを観測する時には、意図的にそのような相互作用を起こす実験装置を構成し動作させ、その結果を認識しているのである。当然、自然の中でたまたま起こる相互作用が「波束の収縮」を起こすこともある。
 もし、この「波束の収縮」という現象が、時間や空間の偏微分を用いた方程式で表されるような物理的過程であるなら、波動関数を実在の基礎とし、あらゆる物理現象を還元することも可能かも知れない。しかし、「波束の収縮」はこれまでの物理学では全く例の無い、瞬間的な現象である。この瞬間的という意味は、近似的に瞬間的なものという意味ではなく、原理的に瞬間に生じる現象ということであり、「遠隔作用」という言葉を用いるのが適切であろう。けれども、物理学が時間と空間の中で現象の推移を扱う学問である以上、「遠隔作用」はほとんど禁句である。古典論における重力やクーロン力あるいは剛体の力学的作用などを扱う際には、「遠隔作用」がほとんど暗黙の前提として利用されているが、これは近似的にそのようにみなしているだけで、原理的にそうであるわけではない。
 さて、
「遠隔作用」を推移的に扱うには、時間を止めてみればよい。例えば、時間を止めてみて超時間的なパラメーターにより推移的に作用が伝わるという様子を想像することができるであろう。こうすれば、「遠隔作用」も連続的で因果的な現象として捉えられるように思われる。しかし、このように超時間的に現象を捉えることは、説明できているようで実は説明にはなっていない。時間を止めた場合に起こる推移を我々は実証することはできないし、ここで考えていることはあくまで時間の中に在りつつ、時間を止めた場合のことを想像しているに過ぎない。(わかりやすいアナロジーとして、眠りで見る「夢」を思い浮かべてみればよい。「夢」の本質概念は、「眠っている時」、つまり「意識が無い時」に見るということである。今こうしていることが本当は夢じゃないかと考えることは、自分が夢を見ているということを自覚することであり、「意識があること」を意味し、「夢」の本質概念に矛盾する。従って、「今が夢である」ということは言えないはずであるが、一方で「今が夢であることを自覚する夢」を見ているのかも知れないと言うことはどこまでも可能である。同様に、「時間の中に存在している」というのがこの「世界」の本質概念であるとするなら、「時間の外がある」と考えることは「世界」の本質概念に矛盾する。しかし、本当は時間の外があり、そこで波動関数が推移し「波束の収縮」が連続的かつ因果的に起こっているかも知れないと「時間」の中に存在している我々が考えることは、「今が本当は夢なのじゃないか」と思うのと同程度のレベルでは可能である。でも、このことで我々は何も確かなことは言えていない。これが、「説明できているようで実は説明になっていない」という意味である。)
 
ところで、物理学は時間と空間の中で現象を説明する学問であると言える。逆に言えば、時間や空間そのものが何であるのかを語ることはできない。これは、物理学に限らず、あらゆる科学について当てはまる。なぜなら、時間や空間そのものが何であるかを語ろうとする場合に、我々はメタ的に時間と空間の外に出る必要があり、いわば「語り得ないもの」を語ることになるためだ。そこは科学ではなく、宗教や思想が主役となる領域である。こういう意味で、私がこれから述べることは科学ではない。これを信じるように他人に主張すれば、思想になるようなものである。私は、これを他人に信じるように勧めたいとも思わないが、このように捉えることもできるという、波動関数の解釈を示したいと思う。同じくメタ的な「エレベット解釈」と同程度のレベルで、このような解釈にも何らかの意味はあると思われる。
 さて、波動関数の「波束の収縮」という現象が、時間や空間のように世界の中で語りえないものであるとするなら、波動関数は時間や空間のように世界を超える性質を有すると、考えることはできないだろうか?なお、ここで「世界を超える性質」とは、全く世界を超えていて人智が及ばないことは意味していない。世界内の存在である我々が、時間と空間が何であるのかを完全に知るすることはできないが、世界の中に在ってもある程度の性質を知ることができるのと同じ意味で、波動関数についてもある程度のことを我々は知ることができるのである。事実、シュレディンガー方程式に従って因果的に推移するということだけではなく、観測される物理量の統計を統轄したり、ガウス状態になれば粒子のような性質を示すといったように、我々は波動関数について様々なことを知っている。しかし、一方で「波束の収縮」だけではなく、波動関数はどこから発生するのか?、なぜ統計的性質を示すのか?、なぜ本質的に複素数であるのか?、といった根本的な事柄については知り得ないように思われる。波動関数が、便宜上用いられる単なる数学的な道具に過ぎないのであれば特に問題は無いのだが、還元的に粒子の基礎つまり物質の根本原因に置かれるとなると問題は深刻である。物理学は、時間と空間の中で物質の現象を説明する学問であるとも言え、より小さな領域に還元させることで発達して来たという側面があるが、その対象となる物質が最後には何かよくわからない波動関数に還元されるということになるからだ。なお、「波動関数が物質の根本原因である」との述べ方をしたが、波動関数によって表されるのは物質だけではない。(光子の例を考えてみればわかるように、ミクロの領域では、物質であるか、電磁波のようなエネルギーの流れであるのかの区別も曖昧であり、それが波動関数が有する粒子と波の二重性である。)
 我々が、「時間と空間の中にある物質」という言い方をする時、そこにイメージされるのは時間と空間(時空)という枠組みの中に存在する物質ということである。つまり、時空とその中の物質は、全く存在が異なるものとして区別されている。そして、世界の中に存在するものは、時空という枠組み以外には、超越的なものと関係しないだろうという先入観を我々は直観的に有している。だからこそ、端的に世界の中にあると考えられている物質の根本原因が、超越的な波動関数であるということに対し、我々は違和感を持たざるを得ない。「波束の収縮」が問題とされる原因もそこにあり、「波束の収縮」が時空の中で因果的に生じる物理過程であれば、波動関数を単純に物質の根本原因とすることに問題はない。
 この強烈な違和感を解消する一つの解釈として、超越的な波動関数を、同じく超越的な時間や空間と同様に、世界の枠組みの一つとして考えることはできないだろうか?つまり、時間・空間・波動関数という3つの超越的な枠組みにより世界が構成されているとすることだ。しかし、そうであるなら波動関数で表されるもの全ては(通常の物質だけではなく電磁場や準粒子のようなものも含め)、世界内にのみ関係するのでは無く、超越的な存在であるということになる。(なお、重力が波動関数で表されない可能性は十分にあり得る。)とはいえ、日常的な世界は古典物理学でほとんど正しく表すことができるという事実を鑑みれば、超越的な性質が表れるのはあくまでミクロな領域のみである。つまり、量子力学的現象が表れるようなミクロな領域が、世界の枠組みと接しているというイメージだ。このことは、ずっと過去に遡れば時間の始まりがあったとされること(ビックバン)、超マクロな領域に空間の果てがある(?)かも知れないと想像することと対応して、物質的なものの果てにはやはり世界の枠組みとして「波動関数」があると考えてみると、イメージしやすいかも知れない。

 

 

量子力学に戻る

TOPページに戻る